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プロフィール

はじめまして!

野球一筋48年。

自他ともに認める野球バカ「つばき」と申します。

43歳まで105㎏の巨体でしたが、健康診断で赤信号となり、「やばっ」と感じてダイエットに取り組み、現在は75キロ~77キロをキープしている中年のおっさんです。

当サイトの遊びに来ていただいたお礼に、運営者で管理人つばきのプロフィールを紹介します。

つばきのスペック

  • 生まれ:山口県東部
  • 生年月日:1975年5月3日
  • 身長187㎝
  • 体重75キロ前後
  • 家族構成:妻1人(当たり前)子供4人(男2人女2人)豆柴1匹
  • 現在の職業:業務用食品営業(本業)兼Webライター&ブロガー
  • 趣味:料理を作る、柴犬と遊ぶ、野球(現在は少年ソフトボールのコーチ)
  • 好きなもの:お金、愛犬、妻、家族

つばきの過去から現在

ここからは、幼少期から現在に至るまでの経緯を紹介します。

幼少期

山口県東部で生まれる。

生まれたときから3500gを超えるビックベイビーでした(笑)

お産のとき、大きすぎてなかなかでなくて、母親の血管が切れかかったとか…

その後もすくすく育ち、3才にして鶏の足をまるまる1本食べるほどの食欲も持ち主だったようです。

ひとたび冷蔵庫を開けると、1回で牛乳パック1本飲みつくしていたとのエピソードも持っています。

あまりのエンゲル係数の高さにビビった母親が、幼少期の私を飲みすぎと叱り、その後はピタリと飲まなくなったようです(笑)

そのトラウマか現在も牛乳が飲めません…( ノД`)シクシク…

小学生~中学生

順調に成長したつばき少年は父親の影響からか、大の広島カープファンとなり野球にどっぷりつかっていきます。

小学生入学直前、島根県松江市に父親の都合で転勤となり、そこで軟式野球チームに所属しました。

4年生の夏休みに地元へ戻ることになり、そこでは野球チームがなくソフトボールを始めることに…

ボールの大きさに戸惑いながら、徐々にボールや環境になれていきました。

自分ではピッチャーをやる予定だったのですが、生まれながらの巨体のため選択の余地はなく、すぐさまキャッチャーへ(´;ω;`)ウッ…

中学校でも野球部に所属しました。

ある日のこと・・・

友達「監督って帽子とったら頭薄いよね」

つばき少年「てか、あれはハゲているよ(笑)」

その会話を監督は聞いていたようで、その後友人とつばき少年は風当たりが強くなり、試合でも使われない日々が続く不遇(自業自得)の日々を送りました。

高校でも野球をやる予定でしたが、卒業を間近に控えた体育の授業で悲劇が…

サッカーをやっていたところ、友人とからみ転倒。

運悪く友人が上に乗りかかる体勢となり、左の手首が曲がってはいけない方向に向いているではないですか・・・!

んと、手首を複雑骨折してしまい、リハビリ込みで全治6か月~7か月の診断がくだされました。

運よく左手だったため、受験はなんとか合格できましたが、高校での野球は断念する決断。

まあ、単に根性がなかっただけですが(笑)

そんなこんなで地元の工業高校に無事進学しました。

高校時代

無事地元の工業高校に入学できたつばき少年ですが、野球一筋に生きてきたため、他に情熱を注ぐスポーツも思いつがず、友達に誘われるがまま卓球部に入部しました。

当時の卓球部は、現在のイメージと違い、根暗で真面目な人がするスポーツと周囲で認識されていたため、

「なぜ卓球部…」

と、言われました。

単に、運動部の方が就職に有利って、先輩から聞いたためですね。

全く関係なかったですが…(笑)

話しは変わるのですが、私の通った高校は周囲から「自衛隊予備校」と揶揄されるほど厳しく、今思えばよく我慢したと思います。

なぜ、そう言われるかというと

  • 体育は走ってばかり
    →まず、ウオーミングアップに2000m走り、その後に400m×5本のインターバルトレーニングが終わったら、通常の体育授業に入る。
  • 頭髪検査は厳しい
    →髪は耳にかかってはいけない、前髪は眉毛にかかってはいけないなどの規則があり、違反するとその場で髪を切られることもしばしば…
  • 体育祭の練習はラジオ体操から
    →体育祭の練習はラジオ体操から厳しいく指導されます。
    全員がピッタリ動きがあっていないと終わりません。
    その後、行進の練習も同じく、手足がピッタリ揃っていないとダメで、1時間以上歩き続けることも多々ありました。
  • マラソン大会は地獄
    →マラソン大会が近づくと、体育も50分間走になり走りっぱなし。
    しかも、当日の大会で歩こうものなら、つぎの体育の授業で吊るしあげられ、大外刈りをくらい、倒れたところにストンピングをかます、体罰体育教師の集団でした。
  • 体育教官室はヤバい
    →何か、しでかした時は必ず体育教官室に呼び出されます。
    入口のお説教で終わればかわいいのですが、中に入れられるとかなりスリリングな展開になるため、想像にお任せしますね。
    ちなみに私は入口止まりでした(笑)

まだまだ、あげればキリがないのですが、そんな厳しい高校だったため周囲からは、

「自衛隊予備校」

と、異名をとっていました。

今なら、体育教師は全員、体罰で解雇案件でしょうね…(笑)

おおらかな時代でした。

そんな学校でしたが、もちろんいい所もありました。

その厳しさから、周辺工場からは信頼が厚く、就職には困らないほどの求人数が来ていましたね。

「あの、高校の生徒なら根性がある」

と、思われていたようです。

割と歴史の古い高校だったため、地元企業のお偉いさんも卒業生が多かったことも影響したのでしょう。

そんな厳しい環境で3年間生活し、無事に就職できた高校時代でした。

18歳~22歳のつばき

無事、高校卒業できて就職も決まり、自動車関連の物流会社に就職しました。

そこで社会の洗礼をあびました。

なんと、超ブラック企業でしたね。

  • 残業は100時間越え
  • 残業代はつかない
  • タイムカードが存在しない

などなど、思い描いていた社会人生活とはかけ離れたものでした…

そんな会社を4年も続けた理由は…

「女性が多かった」

この1点でした(笑)

高校時代を男子校(正確には3人女子がいました)で過ごした、ツバキ少年は女性に飢えていたのです…

隣のシートベルト加工工場には、若い女性がたくさんいて、その子たちと毎日話をするだけで、日々の残業も頑張れていました。

先輩たちも楽しい人が多く、お酒やギャンブル、合コンなど、とにかく遊びまくった日々でしたね。

きっと、高校時代に厳しかった反動が来たのでしょう(笑)

なかでも、唯一尊敬する上司がいたのですが、その方の退職を機に自分もブラック企業を脱出しました。

23歳~37歳のつばき

ブラック企業を脱出したつばきですが、その後はちょうど引っ越しシーズンだったため、当時大学生(2浪)の友達とアルバイトへ行くことになりました。

引っ越しはきついと世間では言われていましたが、体力とパワーに自信をもっており、軍隊のような高校で育った環境も後押しして、そこまで引っ越しのバイトはきつく感じませんでした。

若いって素晴らしいですね。

しかも、アルバイトには女の子も大量に来ていたため、テンションも爆上げでした(笑)

期間限定でのアルバイトでしたが、その後なぜかズルズルとアルバイトを続けてしまい、いつの間にか契約社員になっていましたね。

引っ越しの仕事はとても楽しく自分にあっていたようです。

なぜなら…

  • 毎日違う現場に行ける
  • 毎日違う人に会える
  • お金をもらいながら体を鍛えられる
  • 引っ越しシーズンは若い女の子が来る(最重要ポイント)
  • 平日に休める

などなど、当時の自分にマッチしていました。

その後も順調に

  • 契約社員
  • 準社員
  • 正社員
  • センター長
  • 営業所長
  • 支店長

と、階段を上りましたね。

ですが、楽しいのも正社員までくらいで、センター長あたりからは、現場と内勤作業とで毎日遅くまで働く日々が続きました。

しかも、役職を持つと、お客様のクレーム対応の仕事や売上ノルマと戦う日々が続き、なかなか精神的にも辛かったですね。

実際、同じ立場の人は鬱になってしまったりと、かなり精神的にきつい仕事でした。

私は基本考え込まないタイプだったため、気にしていませんでしたけど(笑)

【プライベートの話】30歳の時に結婚

お相手はアルバイトに来ていた、当時大学生の子です。

1年ほど付き合って、結婚しました。

もちろん、できたからです(笑)

1人目の出産時は3月後半ということもあり、引っ越しシーズンど真ん中で、産まれた日に15分程度見に行き、その後10日間は会えませんでした。

久しぶりに会い、抱っこすると泣かれまくったことは言うまでもありませんね(笑)

その後に3人、計4人子供がいるのですが、立ち会えたのは4人目だけでした。

2人目のときは、引っ越しの運行で徳島県にいましたね。

言い訳をすると、予定日よりかなり早く産まれたため、間に合わなかったのです。

3人目のときは、病院まで連れていけたのですが、ご指名の仕事が入っており立ち会えず、いまでも奥さんには怒りを買っています。

4人目はついに立ち会えました。

なぜなら、会社を辞めたためです。

続く…

38歳~現在

4人目が産まれる半年前に、県外転勤を命じられ、地元をこよなく愛する私は会社を辞める決心をしました。

もちろん次の仕事は決めておらず、完全に勢いでやめましたね(笑)

せっかくなので、4人目は立ち会って欲しいと、奥さんの希望により生まれるまでは失業保険をもらいつつ、主夫に専念しました。

ここで、料理の楽しさを覚え、つぎの仕事は「食べ物に関する仕事がいいかな」って漠然と考えるようになりましたね。

無事に4人目に立ち会ったときの感想は

「ホルモンが食べたくなった」

と、いうみんなが呆れる一言を残し感動の出産シーンに立ち会えました(笑)

ようやく、出産に立ち会えたため、本格的に次の仕事探しに専念です。

2社ほど面接し、ともに最終面接までいきました。

結果、最初に採用をもらった、現在の「業務用食品卸の営業」の仕事に決定。

37歳でした。

今思えば、このときネットビジネスに興味を持って勉強していれば良かったと、後悔していますが、当時の私は全く興味も無かったというか、知らなかったですね。

新しい職場での仕事は、食品アレルギーや、飲食店で実際どのような食材が使用されているのか、など今まで知らなかったことの連続で衝撃的でした。

例えば、地元の超人気店の厨房がメッチャ汚くて、「こんなところで調理された料理たべたくないな」とか「あの居酒屋は冷凍食品ばかりでほとんど作っていないな」などなど…

ですが、勉強になることも多くありました。

  • 食品アレルギーに詳しくなった
  • 食品の栄養素に詳しくなった
  • 料理メニューのレシピに詳しくなった

など、実生活で役に立つことも多く、勉強になる職場ですね。

とくに良かった点は、国内有名メーカーの営業マンと話す機会も多く、新商品をいち早く知れたり、レシピを教えてもらえた点はホントに役に立ちました。

新しい職場にもなれ、だんだん刺激も少なくなり、給料もイマイチ上がらない現状に、

「なにかお金が増える方法はないかな…」

と考えるようになり、YouTubeをみていると副業が熱いや副業で稼ごうなどのチャンネルをよく見るようになりました。

ただ、どれも怪しく感じてしまい、なかなか動きだせなかったのも事実です。

そんなときに視聴し、衝撃を受けたYouTubeのチャンネルがKYOKO先生でした。

ついに副業を始める

KYOKO先生のチャンネルを毎日見ていると、この人はウソを言っていないし、おいしいことばかり並べていない、誠実な人だと感じるようになりました。

そこで、ついに副業を始めると決意!

KYOKO先生がまず、WEBライターから始めようと言われていたため、その通りにしました。

もちろん、何もわからないし、国語も得意ではなかったですが、とにかくKYOKO先生のYouTubeを見て勉強しましたね。

おそらく、人生で一番勉強したと思います(笑)

とにかく、KYOKO先生の言われるがままに進み、クラウドソーシングサイトに登録しました。

かなりの進歩です(笑)

WEBライターとして始動

まず、ランサーズに登録。

タスク案件を5件こなし、ついにプロジェクト案件に手を出してみました。

最初は恋愛系のプロジェクトに応募。

なぜか、受注できてしまいビックリしてしまいました。

3000字程度の文字数でしたが、わりと書きやすい案件だったため3日後に納品。

「写真も撮れますか」

と言われ、現場へ写真を撮りに行き、写真も添えて納品しました。

3000文字で3000円+写真代2000円で5000円の報酬をゲット。

その時の感動は今も忘れませんね。

「これが、皆さんがよくいわれる0→1の達成か…」

と、意外に楽勝じゃんと調子に乗りやすい性格の私は思ったのです(笑)

もちろん、そんなに甘い世界ではなく、その後は全く案件を受注できずにいました。

その後はダイエット案件10,000文字以上で0.1円の案件をゲット!

まったく稼げませんでした。

やはり、「勉強が足りていないのかも…」

と、考え「初心者歓迎!丁寧なFBつき」の案件に応募し、見事に受注。

単価は3,000文字で200円と激安でしたが、勉強させてもらえるとのことでしたので、喜んでいました。

2022年3月のことです。

激安案件のその後

20記事達成後に成果支払いの案件だったため、「最初は案件探ししなくて、毎日記事が書けるなんて最高!」

とか思っていました。

初心者にも丁寧におしえます!の言葉通り、マニュアルはとてもしっかりしており、記事添削も丁寧にしていただけました。

リライト中心の序盤こそ、順調に数をこなせていました。

2か月くらいで終わらせ、ライティング力をつけて稼ぐ気満々でしたね(笑)

5記事目くらいから、変化があり記事構成から執筆まで任されるようになりました。

ここからが長かった…

ボリューム感たっぷりのキーワードが多く、10,000文字を超える記事も珍しくありませんでした。

画像の挿入、アイキャッチ作成、などなど1記事仕上げるのに2週間かかるようになり、まったく進まなくなりましたね。

それでも続けたられたのは、「ライティングがうまくなって、稼ぎたい」の一心だけ。

その後は、新しく入ってきた新人ライターさんの添削も任されるようになり、ますます記事執筆は進まなくなりました。

Twitterなどを見ると、搾取案件で似たような条件が多く、「あーあ、やっちゃった」かなとも思いました。

少しづつ、辛くなってきたころです。

無事20記事達成

2022年9月無事、20記事達成し晴れて契約満了となりました。

半年以上かけて、記事の報酬は4000円と記事添削が1記事100円で2000円。

合計6000千円の報酬でした(笑)

この案件でできるようになったこと

  • ワードプレスの使い方
  • SEOの知識
  • 記事構成作り
  • 便利ツールの使い方
  • チャットワークの使い方

など、個人のスキルは上がったと感じました。

なんといっても、単価は激安でしたが、とても人間味のあるすばらしいクライアント様でしたよ。

今でも、感謝しています。

再始動

WEBライターとして、少し自信もつき、ランサーズで文字単価1円以下は応募しないと、かたくなに決意しました(笑)

もちろん、そんなに甘いものではなく、10件応募して1件返事が来ればラッキーくらいのペースでしたね。

それでも、たまに案件は取れていました。

「このままで、月に5満万円稼げるイメージがわかないな」

と、漠然と考える日々が続きました。

そんな折に、KYOKO先生の「副業の学校がリニューアル」するというではないですか。

ここは、再度勉強するしかないなと感じました。

副業の学校に入学

リニューアル後は審査制で、入れるか不安でしたが、なんとか入学審査をパスして、最後の難関である、費用を工面するために奥さんに相談・・・

「きっと文句言われるだろうな…」

と感じながらも、やるしかないと決めたため、決意を話しました。

意外にもすんなりOKが出ました。

きっと、お金を出してもらう代わりに

「しっかり稼いで楽にしてやる!」

と豪語したからかもしれません。

担保に、20歳の時に買った、プラチナのネックレス80gを取られましたが(笑)

副業の学校は想像以上にすごかった

入学してみて、びっくり仰天のコンテンツの数々。

「まあ、ビビりました」

ここなら、きっと成長できると確信できましたね。

膨大な量のコンテンツが一生見放題と、なんと太っ腹な学校でしょう。

本題にもどり、その後はWEBライターとして文字単価1.5円の案件もゲットできたりと、効果は抜群でした。

ブログに興味を持つ!

副業の学校に入学したことと、以前取引していたクライアントさんのブログを書いていたこともあり、自身でブログを持つことに、興味を感じました。

どんな分野がいいのかな・・・

悩みに悩みましたが、私が興味のある分野で、コーヒーが大好きなため自分の味覚にあったコーヒーを探そうと思いブログを始めようと決意しました。

このブログで伝えたいこと

ワインに合うチーズを選び、日本酒に合う刺身を探し、ビールに合う揚げ物を頼む・・・

なぜ、さまざま食事に合わせるため、お酒にこだわりを見せるのに、コーヒーはなんとなくで選ぶのでしょうか・・・

きっと、自分にあったコーヒーの味を知らないから!

そんな疑問をもった私は・・・

あなたにも「なんとなくおいしいコーヒー」ではなくて、自分の味覚にあったコーヒーを見つけてほしい。

そう思い、このサイトを立ち上げました。

あなたも、私と一緒にコーヒー味を探しに旅立ちませんか?


つばき

よろしくお願いいたします。